昭和44年01月28日 朝の御理解
御理解 第28節
「病人や代々難儀の続く人が神のおかげを受けるのは、井戸がえをするに、八、九分かえて、退屈してやめれば、掃除はできぬ、それでやはり水は濁っておるようなもので、信心も途中でやめれば病気災難の根は切れぬ。井戸は清水になるまで、病気災難は根の切れるまで、一心に、まめで繁盛するよう元気な心で信心せよ。」
病人や代々難儀の続く人が世の中の様々な難儀と、それが重なりに重なって、まぁあちらの家はどうしてあんなに腑が悪いだろうかと、いった様なあのう事がございます。そういうところからお互いが信心に縁を頂く訳でございますけれども。それのところのおかげを頂きたいと、一心に縋ってお願いをしておりますけれども。こりゃとても私達の様な信心じゃ駄目だと、とても私位な信心じゃおかげ受けられんだろうと、もう決めて信心止めてしまう人がある。
これではいつまで経っても病気災難のん根は切れんと、まぁ言う風に説いてございますけれども。今日私はここんところをですね、途中でやめれば病気災難の根は切れぬと言うところね。これはあのう信心をやめるという事じゃ無いと思うです。信心は何十年続いておってもね、それは50年信心を続けられておっても、途中でやめればと言うのは、そのう病気災難の元であるそのう根を切る、根を断つ事の精進が怠ったら、それをやめたらという事だと思う。
そりゃ私共は知っている昔のご信者さん方は、まぁ例えば私の親教会の三井教会なんかもう50年も60年も信心を続いておられ方がございます。やっぱりそのうそのう難儀が続いておる。信心止めただけじゃない、もう50年も経ったんだからいい加減そのう、清まると言うか井戸は清水になるまでの、おかげを受けておらなければならんのにです、受けていない事実がある。いくらもあるんです。してみるとここはあのう途中でやめればという事は、信心をやめてしまえばいうことじゃない事が分かりますね。
病気災難はどこからどの様な風にして起きて来るのであろうか。人間の難儀というものがんえどういうところから起きて来るかと。ですからそこの所を追及する、そこんところを教祖様は家の前々のめぐりで難を受けおると、こう仰っておられるですね。前々のめぐりで難を受けおる。それがそのぜんぜんとめぐりという事がまた分からない。日柄方位ばかり見てね天地に無礼致し、御理解三節にございますね。
天地金乃神と申す事は、天地の間におって氏子おかげを知らずと、神仏の宮寺、氏子の家屋敷みな神の地所。そのわけ知らず日柄方位ばかり見て無礼致し、前々のめぐりあわせで難を受けおり、この度金光大神を差し向け願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々繁盛いたすこと、氏子ありての神神ありての氏子、上下立つ様に致すと。ここにもう明確に難儀の元というのを説いておられます。
前々のここめぐりという事を私は使いますけれども、教祖はめぐりいうこたぁここんところだけしか仰ってないです。ですからねそのう私共は難儀の元の追及という事がですね、出来てもいないし又それを感じておるけれども、それを見当違いのところに焦点を置いておりますね。ですから途中でやめればという前にですね、これがこれが難儀の元だという元を先ず知らにゃいけん。病気災難ね代々難儀の続く、そういう難儀の続くという事はどういう事かと。先祖が例えば大変悪い事したとかね。
あちらはもう何んと言うかね、家代々そのう盗癖があるとか泥棒くせがあるとか、あちらはもう代々お父さんの時から女癖が悪かったとか。そういう様なをですねそういう様な事も成程、私は良い事ではないね。そりゃやはり実意丁寧、真面目に生活させて頂くという事は、もうまぁ有り難いですけれども。本当は天地の親神様のね難儀の元というのはそんな事じゃないち。甘いものの好きないわば家には甘いものが好きな人が生まれる。辛い物が好きな人のところにはやはり辛い物の好きな人が生まれるね。
だから私はそれは神様が甘いものは甘いもの、辛いものは辛い物としてその家にむしろ与えてあるんです。私はこないだより何時も久保山先生と久富先生のでから、いつも問い合ったが昔ね。御承知の通り久保山先生はっもう甘いものに目がない。久富先生の所は久富先生も好きだけれども、もう一家をあげてこれの方が好き、いける訳です。私共こう思わせて頂くんですけれども、だからそのう甘いものを断たなければ、辛いものを断たなければ、好きな物が嫌いにならなければ。
私はあのうおかげが受けられんとか、難儀の元になるといった様な事じゃはないと思います。甘いものを与えられておるならば甘いものを頂いても良し、辛い物が家代々好きにあたえられておるならそれを頂いたら良いと。ところが例えば久富先生のとこの例を取ってもです、確かにそのうまぁある意味合いに於いては、そのう辛い物それがあちらの命取りになっとる様な事実がいくらでもある事です。あちらのおじさんは酒を大変飲んでそのう事故に遇われた。
息子も大変沢山お金を、お酒を飲んで帰って来ょるおる時に、事故に遇うた。といったようにそのう確かに、久富家にそういう事があるから、やはりこれは酒がめぐりだ、酒の為にいつも命を取られておるという、また怪我をしておると、またそれが難儀の元になっておると思うけれどもね、それはそうじゃない。だからそれをね本当に神様から与えられておるもんだい、頂いているものだ許されておるものだと、頂かねばう嘘だと思う。私は今日はそう感じた。
こりゃ久富先生あんたんとここもいっちょ辛かつも、めぐりもいっちょ取らにゃこといかんばいち。この頃からも息子さんがちょっとした事故に遇いました。まぁそん時にお酒が入っとったかどうかは知りませんけれども、やっぱ事故に遇った日頃大変好きですから、はぁあっちはまた飲んだったちゃろと思われても仕方がない訳なんです。けれどもそれは久富の家に与えられてあるもの、これは久保山の家に与えられておるもの、その甘いものを断たなければ、久保山先生なんかでも随分ね。
この甘いもの断つことには修行されましたよ。なにか御まった事が起こって来ると、いちばん好きな甘いものを断つことには修行されましたよ。なにか例えば困ったことが起こって来ると、いちばん好きな甘いものを断って修行しておられましたけれどもです、それはとても長く続く事じゃなかった。久富先生でも同じ事。何ヶ月ちゃ好きな酒を断たれた時もあった。けれどもいつも何とはなしに酒の匂いがしとるというような感じである。その様に例えば与えられておるものをです。
はぁ自分なこの酒が飲んじゃいかんというように。この甘いものにまた手が出よると、はぁ是だから自分おかげ頂き切らんと思うからおかげ頂き切らん。これは天地の神様が久富家に与えられたもの、これは久保山家こりゃもう与えられたものとして、頂かして貰いそこからお取次ぎ頂いて、甘い元の甘いものなら甘いものを頂く道がある、辛いものなら辛いものを頂く道がある。そこには心にひとっつも引っ掛からない。引っ掛からんどころがそれを有り難く頂く道がある。
私しゃこの道付けというのはそんなもんだと思う。金光様のご信心によって道付けを下さる。道を付けて下さる。それを自分の所に与えられているような、その例えば特に辛いものである、又は甘いものこりゃ決して、あのう甘いものが酒とかボタ餅という意味じゃないですよね。お互いの家にはぁこれがめぐりじゃろうと、取り組んで取り込んでもそれに対してですね、自分もどうにも失敗するようなあのう事を、家のめぐりとか思うておる人がありますけれども。
そりゃめぐりじゃなくて与えられておるんだと思わにゃいかんです。恵まれておるんだと。ですから自なこげな甘いもんば食べよるが、ほんとこげな事ちゃ自分なおかげ頂き切るまいと、心の中で心の呵責にそのさいなまれておる。久富先生あたりもそんなこと、はぁこれをいっちょ自分が飲まんならね、これを飲まんなら自分にはこういうめぐりがあるから、それでもやはり手がグーグーと酒に近づいて行く訳です。ね好きな事になってくると、ついつい一杯が二杯と言う風に過ごされる。
はぁこんな事じゃいかんと言いながら、自分はそれに負けてしまう。それがそれでおかげ落とす元になる、これがどうだろうか反対にね、本当に有り難いもう本当に飲み切らん酒の味の分からん人の気持ちの分からんそのう。こげな美味しかもんば飲むほどに酔うほどに、有り難ぁっとなっていく道がある。それをこれが久富の家のめぐりというな思い方。これが久保山の家のめぐりというようなその頂き方からはね。もう本当に苦しまんならんです。私は今日は「天地の法」いう事を頂いたんですけれども。
これはねそのうそういう頂き方が、天地の法を曲げてしまって、天地の法に叶わない事になって、おかげを落としていく訳なんですね。もう実にデリケートと言ったら、これ位デリケートな事ないです。同んなじ事ですよ。それがんなら与えられておるとして頂いたらです、それがおかげになって行くんですから。与えられておるとして頂いて行く、恵まれておるとして、特別に私の家に、こうして頂いておるとして頂いて行く、そういう頂き方にゃですね。そのそれはもう法に則取ったあり方に。
そこが法に則取るという事がです、道を付けて頂く道を分からして貰う、頂く道頂くすべを教えてもらう。これをまぁドライなといわゆるね割り切った考え方と、というふうに思うそのうまぁけれども、決してそりゃ割り切ったではない、正しい天地のそりゃ法則なんです。例えばねいうならば酒の好きで好きで堪らんという人がね、その酒を頂く道を知らずに頂く所に難儀がある。道を得てねその道を辿らせて頂く所には、本当に飲む程に酔う程に有り難うなって来る事だけしかならん。
恵まれておるとして有り難く頂いたら、そこにゃもうむしろそれにおかげに繋がって来るなん。そうして例えば自分がこの甘かもんば断ってしまわなければ、自分がこの辛いものをとってしまわなければ、俺んところのめぐりが取れんような思いがこりゃ間違い。これはまぁ言うならばドン・キホーテの、いわゆるあの蛮勇に似た様なものである。到底それにこうしを得ない、それを徹底して頂き抜けない、ならどうせ自分が負けるものに向って立ち向かっておるようなもの。
自分がどうせ負ける事が分かっているのにそれに立ち向かっておる。これでは疲れる。そこでなら御理解第3節にはね、「病人や代々難儀の続く人が、神のおかげを受けるのは、井戸がえをするに、八、九分目で退屈してやめれば、掃除はできぬ、それでやはり水は濁っておるようなものだと」結局そのうそういう代々難儀の続くというか、その難儀の元といった様なもののいわば焦点から間違っている。それなら教祖様はそこにここに御理解3節にはっきり言うておられるように。
「神仏の宮寺ね、氏子の家屋敷、みな神の地所、そのわけ知らず、日柄方角ばかり見て無礼致し、前々のめぐりあわせで難を受けおる」難の元と言うのはですね、私共が見当違いの思い方。こりゃ御理解3節にまた本当はま少し具体的に頂かなければ分からないですけれどもね、例えば普請をするのに例えば方位と言うですか、何かこう金神さんの何だか見といてそのう、家相の何んとかという様な事言うでしょう。そしてここのところはいち門済じゃけんで良かちか悪かとかという事はね。
こういう事が天地に対す無礼い致していう事なんです。だからもう本当に見当違いの事をして、何んにも分からない内に私共はめぐりを作っている。難儀の元を作っておる。難儀の元と言うのは私共が小さい癖とかね、甘いものが好きとか辛い物が好きとかと言った様な癖的な、そのう小さい事では無くてです。難儀の元と言うのは大きな大天地に対しするところの御無礼なんです。このいわゆる神様に御無礼と言うのは、そういう天地のそのう、それこそ指一本押すだけでも、この御地内の中にです。
良いの悪いのというところがあろうはずがない。天地の親神様のお恵みに漏れるところはないのです。そこに人間が我儘勝手な考え方やら、少しばかりの学問でここは、ここははいけんとかここは良いとかという様な、見当違いの事をする事が前々のめぐりで、難の元になっておるという仰っておられる。それはそれだけの事じゃないね、もう私共は見当違いのいわあゆる思い方。見当違いの思い方にというところにです、こりゃ本当に大変な見当違いをしておる事が沢山ございます。
そういうことがいわゆる難儀の元になっておるんだと。ですからそう50年信心しておってもそこんところの訳が分からずに、私しゃ無礼を重ねておるなら何時まで経っても、井戸は清水にゃなりません。それは自分のとこのめぐりはこれじゃろうと、このめぐりのお取り払いをもう自分がそれに抗し得ない。勝つ事の出来ないそれに向って取り組んで、そして負けては、はぁ自分のごたるもんじゃおかげを頂けんで、自分を卑屈にしてしまう。そういうところをですもう少し本当明朗活発と申しましょうか。
もっと明るい堂々とした、与えられたものに対するそれは本当に特別に与えられておるのであるから、有り難いと分からして頂く信心。そして天地に対するに対して無礼致すと仰る様な、一歩天ん地に対する御無礼やといったようなものの所のですね検討をです、も少し加えて行かなけば。そこから見当違いもないのものの見方考え方が身に付いて来る。そういう事に取り組んでいかなければ、井戸は清水までになるまでにゃならないのであり。50年信心が続いておっても、そう言う事に気が付かなかったら。
やはりめぐりの元は断つ事は出来ない。病気災難は根の切れるまで、本当に病気災難は根の切れるまでのところにです。私共の思い違い見当違いをところ分からして貰うておかげが頂いていくんだ。日々の中にも様々な大なり小なり、見当違いの事を言うたり思うたりしている事が沢山ある。そういうことのお粗末御無礼をひとつ悟らしてもろうて、ここにもまめで繁盛するよう元気な心で信心せよとこう言うておられますが。只今の御理解3節にもね、末々繁盛致す事と言うておられます。
末々繁盛いたすことねを、又はまめで繁盛するよう元気な心で願えとこう、信心せよと仰っておられますからね、ひとつこのう見当違い思い違い、そこんところを御教えを頂いて分からして貰う。昨日も本当に私達思うんですね、久留米からもう本当に家を買いたいと言う訳なんです。お繰り合わせ頂いてもう本当に嘘のような話が持ち上がりましてね。そこの家が東京に今度おい出られ行かねばならんから、そこのお家を買おうとこういう。値段も安いし家も良いし広いしもう大変。
もう植え込みなんかもそのまんまもう譲ろうと。値段も大変安いもうおかげ頂いたと言いよった。たところがその人はまぁ親戚筋になる建築屋さん、この方非常にそのう建築屋さんですから、家相やらそのう地のなんとか調べられる方らしい。ほれでまぁあんたんとこあげな家なんかならもう、また主人があの家も主人が亡くなったとは。便所があげんとこにあったけん、あすこの主人が亡くなったと。
こりゃあんた家は安いけども買ようなら、またあんたげん主人が亡くなるばいというふうに言われたら、もうそれが非常ぅに神経をそういうことに使われる方だったもんですから、もう本当にこげん有り難いおかげ頂けたと、言いよった人がですやめてしもうた。こげな馬鹿な、馬鹿なじゃなくてこげな見当違いの所にですね、その例えばあのう御無礼が出来て行く訳ですよ。そげな事あろう筈がない。それが天地の御恩徳を分かればそれが分かるのですけれども。天地の道理も分からずに、天地の御恩徳も分からずに。
例えば得とか損とかいうことにおいてでもです、はぁもう本当に安くて買えて、しかも自分の思いがそこに成就する道がそこにあるのにも、それを例えば家相が悪かからと言ってこっちの方から断ってしもうた。馬鹿んごたる話でしょうね。だから損とか得とかいうこともですけども、そういう事が見当違いですから御無頼になっていきょるとです。だから実際いうたらねその天地に対するが御無礼というのは、もう何に気もない迂闊な所に御無礼が出来て行きょるとです。
私共が例えば妙な癖があると、そのそれがめぐりの元になるてんなんてんこっちゃない。難儀の元になるこっちゃないってね。今日は私はそこんにきを分かりやすくするために、あのう甘いものと辛い物の例を取りましたけれどね。例えばそのうならこれは頂か頂いておるというね。これは神様から与えられておるものとして頂くとか、今迄はそれをめぐりと思うておったのを、いんやこりゃむしろ与えられておったんだ、恵まれておったんだとして有り難く頂くというふうに。分かりやすく申しました。
けれどもねそれがあのう人の邪魔になるとか、人に迷惑かけるといったようなことであったら、改まって行かなきゃいけませんよ。それはめぐりとかめぐりじゃないという事ではなくてもです、そういう事は信心の日々の改まりが第一と仰るのですから、やはり改まることに努めていかねばいけません。そういう改まりをです。例えばしない生き方こそがこれはドライなんです。これは人間だからこれ位当たり前じゃなくて、もうこれば与えられとるとというような考え方は、そこにきは大変横着になりますから。
これはおかげになりません。この辺のところを聞き間違えないようにしなければいけません。そういう事をです途中で辞めればと言うのはそういう事。信心しょきゃ少ぅし分かるごとなってから分かって来た。そしていわゆるドライになって。割り切った考え方になって人に迷惑のかかるような事はもう無頓着で、そのうそれが改められないということはいけませんから。どうぞその辺のところ間違えがない様にね。この辺の所があのう本当に分って欲しい。そしてまたあんまり分かり過ぎってから。
ドライになってはいけないというとこを、ひとつ皆さん頂き違えんようにして下さいね。それがひとの迷惑になる様な事にあってはなりません。そこに例えば頂く道というものを教えて頂くのですがね。そういうな事をドライに考える事割り切って考える事をは、これは途中でやめる事になります。それならそれではやはりいつまでも水は濁っておるようなもの、人に迷惑されるような迷惑になる様なそれはひとつ改めてそれが日々の。日常生活の中で本気で取組んで改まって行けば改められる。
そこは改めて行かにゃいけませんね。病気災難の根の切れるまで一心にまめで繁盛するよう元気な心で信心せよと。私共の思い違い見当違いというところをです、そのうもうそれこそ繰り返し繰り返し検討してみて、自分のこういう考え方は大変な見当違い会ったなと、分からせて頂いた所はもうもうすぐさま改めていかにゃいかん、しかも天地に対する無礼に繋がるものは必ずめぐりになる。ここんところをねまちっと、御理解3節の今のところを焦点にして頂きますとですね。
金光様の御信心を頂いて、そこんところが分かって来るとですね、もうめぐりを積まんですむ道と、金光教は言われるんです。そこんところに明るい大きいものになて行きますと。難儀の元を作らんで済む道といえます。こういう説き方はもうどれだけ何千何万あるか分かない。仏典にもないという事です、勿論キリストが説いておるバイブルの中にもないです。難儀の道を断つ断てれる道といったようなものは、しかもそれは教祖のそこのちゃくなんちゅかねぇ。
教祖が気付かれておられるところはどこかと言うと、天地に対し無礼致しというところなんですからね。しかも天地の無礼というのはどういう事かと言うと、天地に対する見当違いの考え方ということなんです。それを例えばここにみやすう、これ日本人向きにまぁいうならば説いてある訳ですね。日柄方角ねと言った様な事で説いてございますね。大変な見当違いなんです。
ですからそういう素晴らしい私共は道を体得させてもらって、それから個人個人にあるところの、言うならめぐりと思うておった事がです。めぐりではなくて恵まれておると気付かして頂くときに、そこから明るい有り難い道がついて来るからというて。人の迷惑になる様な、例えば事柄やら問題をです。やらようなものが自分の内容にあるならばです、これはやはり改めて行かなければならないと。そこんところは日々の改まりの中になからなければなりません。
お互い本当に井戸は清水になるまで、こんこんとして汲めども尽きぬね、清い清らかなお恵みの水が汲めれる様なおかげを頂くところまで。元気な心で信心を信心を続けじゃなくて、改まるという事にを続けてね改まるという事に焦点置いての、信心修業が続け抜かれなければいけません。そこに元気な心が必要なのです。そういう生き方の上に私は末々繁盛いたす。まめで繁盛するよう元気な心で信心せよと仰る様な。この繁盛への繋がりというものを頂ける事を思います。
どうぞお互いのめぐりと思うておった事に見当違いの考え方、そこんところを私共は今日頂きますのにね、もう本当にあのうドン・キホーテじゃないけれども、もう当時はそういうものにこうこうしられた筈はない、向かわれない筈はないものに向かって行く事が、元気な心のように思うておる事は間違い。もう自分が負ける事が分かっておるようなものに、取り組んでそれをいこうとする考え方は間違い。
そこんところは良く信心の目をもって見ると、むしろそれをおかげとして受けなければならん事に立ち向かっておる。そしても気やすう出来るみやすう出来る改まり、いわば天地に対するところの御無礼といったような事に心を使えば、御無礼せんで済む道がいくらあるのに、そういうところには迂闊でおって、いわゆる前々のめぐり難を受けおるといったような結果になっておるのでございますから、そこんところを分からせてもらわにゃいけんと思うね。
どうぞ。